风清扬斈 14年前 (2006-12-28) 网络资料 3101 0
おおえけんざぶろう
  数知れない鳥の羽ばたきが、かれを目覚めさせた。朝、秋の朝だった。かれの長々と横たわった体のまわりに無数の鳥がびっしり翼(つばさ)を連(つら)ねあって絶え間なく羽ばたきを続けている。かれの頬(ほお)、かれの裸の胸、腹、腿の皮膚一面を、堅く細い鳥の足が震えを伝えながらおおっている。そして暗い部屋いっぱいに、森の樹葉(じゅよう)のさやぎ(1)のように、いっぱいの鳥たちは、けっして鳴かず飛び立ちもせず、黙り込んだままけんめいに羽ばたきをくりかえしていた。鳥たちは不意の驚き、突然の不安に脅(おびや)かされてそのあまりにざわめいている様子なのだ。 
  かれは耳を澄まし、階下(かいか)の応接室で母と男の声がひそかに続けられているのろ聞いた。ああそういうことか、とかれは鳥たちへ優しくささやき(2)かけた。羽ばたきはよせ、こわがることは何一つない、だれもおまえたちを捕らえることはできない。あいつらは、外側の人間どもはおまえたちを見る日、おまえたちの羽ばたきを聞く耳を持っていないんだ、おまえたちを捕られることなんかできはしない。
  安心した鳥たちの羽ばたきが収まり、かれの体一面から震える小鳥の足のかすかで心地よい圧迫が弱まってゆき、消えていった。そしてあとには、頭の皮膚の内側をむずがゆくし熱っぽくしてむくむく動きまわる眠けだけが残っていた。かれは幸福なあくびをし、ふたたび目をつむった。眠けは、鳥たちのようにはかれの優しい声に反応しないから、それを追いやることはむつかしいのだ。それはしかたのないことだ。眠けは現実の一部ということだ。<現実>は鳥たちのように柔らかく繊細な感情を持っていない。かれのごく微細な合図だけでたちまち消え去って行く<鳥たち>に比べて、<現実>はけっして従順でなく、がんこにかれの部屋の外側に立ちふさがっていて、かれの合図をはねつける。<現実>はすべて他人のにおいを根強くこびりつかせているのだ。だからかれはもう一年以上も暗くした部屋に閉じこもって、夜となく昼となく部屋いっぱいになるほど群れ集まって訪れる鳥たちを相手にひっそりと暮らしてきたのだ。
  階段を上ってくる足音がしていた、それは珍しいことだった。足音は近づいて来てとびらの向こうで止まった。かれは体をこわばらせて待った。とびらを柔らかい指がたたいていた。「ねえ、開けてほしいの、あなたに会っていただくかたがいらしてるのよ。」と母親の控え目(3)な声がした。「ねえ、悪いかたじゃないの、開けてください。」
  かれは黙って息を詰めていた。とびらの向こうにも同じような充実した沈黙があった。そしてそれはかれが黙っている間、しんぼう強く断続(だんぞく)した。ふだん外部からやって来ようとする者たちは、せつかちにとびらをがたがたやったり怒気(どき)を含んだ声を立て続けに浴びせてよこしたりする。そして足音も荒(あら)くとしたりするのだ。しかし今日の客は遠慮深く、しかし執拗(しつよう)に待ちつづけていた。かれは上体(じょうたい)をベッドに起こし、ごく短い間考えた。かれは一月近く外部の人間と会っていなかった。かれは床(ゆか)に敷きつめた深いじゅうたんの上を足音も立てずに歩き、とびらの掛けがねをはずしに行った。
  背の低い、がんじょうな頭をした、褐色の皮膚の男がぎこちない微笑を浮かべ、しゃっちこばって立っていた。かれは余裕に満ちて(4)その男と母親とを見つめた。久しぶりに見る外部の人間は生硬(せいこう)な感じで悪くなかった。
  「このかたがあなたと鳥のことを話したいとおっしゃるのよ。」と母親は目を伏せてますます体を小さくしながら言った。「その道の専門のかたなのよ。」
  かれは男が実に謙虚に、しかし熱情に満ちてかれへ訴えかける目を向けるのへあいまいにうなずき返した。その種の用件でかれを訪れる人間は、たいてい間の悪そうな薄笑いを浮かべていたり、医学的な特種知識を振り回す冷たい目、きわめて批判的な目をしていたりしてかれを反発させたが、その男は違っていた。その男は友情に満ちた人間的な様子をしていた。そしてかれの<鳥たち>についてまじめな、ほとんど日常の必要を検討するような態度を示そうとしていた。かれはべっどに腰をおろし、男と母親が向かいあったいすに座った。
  「どういうお話ですか。」とかれは、自分を異常な人間扱いされることを常にきらっていたので日常さを印象づけるための強調をしながらごく平静に言った。
  「わたしはいないほうがいいでしょうから。」と母親が男の答えの前に言い、腰を浮かした。そして彼女は大急ぎで出て行ってしまう。
  「ええ、ええ。」と少しぎこちない口調で男のないことを言い、窓掛けをたらしたままで夜明けのように暗い室内を見回した。「あなたにお尋ねしたいことがあって。」
  「どうぞ、ぼくに答えることのできる問題でしたら。」とかれはますます落ち着いて言った。そしてかれはよい感情になった。
  「わたしは心理学をやっていますが、あなたの体験に非常に興味を持っているんです。こう申すとなんですけれども。」
  「いいですよ、ぼくの症例とおっしゃってもけっこうです。」とかれは寛大に言った。「あまり正常とは言えないことですからね。」
  「正常とか異常とか、それはつまらないことです。」と誠実さにあふれて男は答えた。「わたしは事実をお聞きしたい。」
  かれは、自分の体のまわりに、鳥の群れの喜びの羽ばたきが、目のあたっている海の波だちのように、光に満ちて数限りなく湧き起こるのを感じ、満足してまわりを見回した。そうなんだ、これは事実だ、正常か異常かはぬきにしてこれは事実にちがいない、とかれは考えた。
  「鳥たちは」と男がメモのための手帳をひざに開いて慎重に言った。「いつからあなたのまわりへやって来ましたか?」
  「二十歳の誕生日でした。」とかれは明らかに言った。「それまでにも、ごくかすかな徴候(ちょうこう)はありましたけれども、その日からすべてがはっきりしたんです。」
  「ぼくは鳥たちといっしょに暮らすために、大学へ出席することをやめ、この部屋に閉じこもる決心をしたんです。」
  「二十歳の時に、ああ、ああ。」と男は熱中してメモを取りながら言った。「なぜですか。もし質問してよければ。」と男は重々しく考えこみながら言った。
  「鳥たちのはかは、みんな他人だということがわかったからですよ。この部屋より外には他人しかいないということがはっきりわかったからです。」とかれは率直(そっちょく)に言った。「人間にはある時期に、他人と触れ合うことを拒みたくなる傾向が起こるんだと思います。ぼくにはそれが二十歳の誕生日を期して起こったというわけですよ。」
  「そうですか。」と男はますます考えこんで言った。「直後に原因となったような事件の心当たりがありますか?」
  「母によりますとね、それは父が亡くなったからだというんです。」とかれは客観性を誇張して言った。「父の死後、三人の兄たちがぼくを排除して結束したんですが、それを原因だと母は言っています。」
  「もちろんそれは思い違いで?」と男は善良そうな苦笑い(にがわらい)を浮かべて言った。
  「ぼくは母にあえて釈明しようとは思わないんです。暗い部屋に閉じこもって、耳たぶに触れるほど近くまで鳥の存在を感じていることでぼくは十分に幸福ですからね。」
  「幸福、十分な幸福。」と男は自分自身に言い聞かせるためのようにくりかえしていた。
  「そうですか。」
  「ぼくは鳥たちを身のまわりに感じることに熱中して、何日も徹夜することがあるんです。そして昼間はぐったり疲れてうつらうつらしていますよ。」
  「あなたは、その<鳥たち>を愛してるんですね。」と男は言った。
  「ええ、ぼくはこいつらをずいぶん気にいっています。」
  「こいつらを。」と男はおうむがえし(5)に言い、かれにならって頭をぐるりとまわりさせた。
  「今もかなりの数の鳥がいます。」とかれは眉をひそめて鳥たちのけはいに聴き入りながら言った。「ときには林の樹木の葉ぐらいもあると思われるほどの鳥が集まって来ることがあるんです。そういう時に、ぼくの体は翼の群がりに支えられて浮き上がるんです。」
  男は夢見るようにはるかな目をし、かれを力づけ得意にした。かれは男に友情を感じ、ついしゃべりすぎてしまうのをとどめることができない。
  「鳥たちとぼくとの結びつきには、いくぶん性的なものがありますね、正直に言って。」
  「心から協力していただいて、ほんとうにありがたく思います。」と男はあらたまって言った。
  そして男が立ち上がると、かれには男がそのまま帰ってしまうことが非常に心残りなように感じられてくるのだ。かれは部屋に閉じこもってからはじめてその男に、真(しん)の知己(ちき)を見つけ出した思いだった。
  「もうお帰りですか。」とかれは自分にもうらめしげに感じられるような声で言った。
  「ええ。」と男は言い、ためらったあと、まっすぐかれを見つめて切り出した。「あなたは<鳥たち>がこの部屋特有の現象だと考えているのですか?」
  「どうかなあ。」とかれは考えこんで言った。「ぼくはずっとこの部屋にいるから。」
  「ひとつ試してみませんか。」と男は急に勢いづいて言った。「この部屋の外でも<鳥たち>が現れるとなると、事情は変わってくるのじゃないかと思いますが。そうでしょう。」
  「そうだと思います。」とかれは言った。「試すというのはどういうことかわかりませんけど。」
  「わたしの車に乗って、わたしの研究所までいらしてください。そこであなたが<鳥たち>を呼び寄せることができるかどうかです。それがあなた自身に由来するか、この部屋に深いつながりを持っているかがはっきりしますよ。」
  男はしだいに雄弁(ゆうべん)になっていった。かれはそれに押しまくられていた。それはたいせつなことかもしれない、それは<鳥たち>がおれ独自のものかどうかを定めるだろう、とかれは考えたが男のことばに乗ってゆくことにためらいを感じているのだ。そこへ母親がとびらの向こうから頭をのぞかせてふいに声をかけた。
  「あなた、それをやってみたら?」
  「あ?」とかれはびっくりして言った。
  「お兄さまたちがいらしたら大反対なさるだろうけど、もしあなたがやりたいんだったら今がよい機会よ。」
  そのことばがかれの心を硬化させた。かれはその試みに頭からすっかりのめりこんでしまった。あいつらに、おれのいやらしい兄貴どもに口出しさせてたまるものか、おれは試してみたいんだ、とかれは考えた。
  「やってみますよ。」とかれは男を見つめて力強く言った。「あなたのご研究のためでもあるんだから。」
  かれは久しぶりに学生服を着込み、むつかしい作業のようにさえ感じられる困難さを克服して、これも久しぶりのかびの生えた靴をはいた。部屋に閉じこもってから足が太ったのだ、とかれは陽気に考えていた。
  玄関の前に荷物を運搬するためにつごうのいいように後部を改造した乗用車が止まっているのへ、かれは男に導かれて乗り込んだ。母親が思いつめたような目をして見送っているのが少しおかしい感じだった。それに雨もよい(6)の曇が閉ざしはじめた空からの光が、長患い(ながわずらい)のあとのようにかれをくらくらさせ、足のぐあいもふらついて少しおかしいのだった。
  しかし車が走りはじめるとともに落ち着きがかれに回復した。座席に深くかけたかれの項(?うなじ)や背に鳥たちのためらいがちな接触が感じられ、それはたちまち数を増した。かれは喜びの感情、いくぶん勝利のにおいのする喜びの感情に捕らえられて身震いした。
  「鳥たちがやって来ましたよ、ぼくのまわりに鳥たちが今やって来たところです。」とかれは男にささやきかけた。
  男は厳しい横顔をかれに向けたまま運転に熱中していて、かれの呼びかけに反応を示さなかった。しかしかれはそれを気にかけないほど、自動車の中での鳥たちの到来を幸福に感じていたのだ。鳥たちは、おれ自身に属しているのだ。おれはどんな遠い国へ追いやられても一生、孤独を味わわないで済むだろう、それは確かなことだ、とかれは考えた。
  舗道(ほどう)を男たちや女たち、それに子供たちが歩いていた。そしてかれはそれらの人々をいくぶんこっけいに感じるのだ。これらの人間どもは<鳥たち>を持っていない、しかもそれを不安にも思わないでわき目もふらずに歩いている、なんということだろう。かれはいま自分が<外部>に対して強い圧迫を加えることのできる加害者であるような気がした。<外部>はあいかわらず他人のにおいに満ちているが、それはいま弱々しく萎縮(いしゅく)していた。数々の他人を家来(けらい)にしている王のようにかれは他人たちの前でおびえなかった。
  車は長い道のりを走りつづけ、そのうちかれは明るい戸外(こがい)を見ることに疲れてしまった。うとうとする。車がとまる、がっしりした腕がかれの肩をつかまえる。目を覚まし、かれは自分が汚らしい木立(こだち)に囲まれた病院の構内へ入っていることに気付いた。
  「早く降りてくれ。」とまったくおうへいな口調に変わった男の声が言って、かれをびっくりさせた。
  「あ?」とかれは男の荒々しい腕に車の外へ引きずり出されてからやっとの思いで言った。「ここはどこです。」
  「おれの研究室があるんだ。」と男は冷淡に言った。「そう言ったはずだろ?」
  上塗りのされていない壁の根に背をもたせかけひざを抱えこみ、目を凝らして日のかげった塀のすみを見つめながら震えている男の子供をかれは見つけて胸を締め付けられた。動悸(どうき)が激しく打ちはじめ、自分の頬が怒りよりもむしろ狼狽(ろうばい)に紅潮してくるのがわかった。
  「ここは、あんたの言った場所じゃない。」とかれは足をふんばって、てこでも動かないという構えをしてから言った。「ここは気違い病院だ。」
  「そうだよ、それがどうした。」と男はせせら笑って言った。「ここへ入ってもらうというだけだ。」
  「おれは入らない、卑劣なやり方で入れようとしてもその手にのる(7)ものか。」とかれは怒りに体じゅうを占領されてしまって叫んだ。
  「もう入ってるんだ。」と男は言い、やにわにかれの腕をつかまえようとした。
  かれがそれを振り払うと、男はゆっくり背をかがめ、そしてかれのみぞおちへどんと響く一突きを押し込んできた。かれはうめき声をあげ、涙を流して背を二つに折り曲げよとしたができなかった。男がそれにかまわずかれを突き飛ばす勢いで病院の裏口らしい場所へどんどん連れ込んでいったから、痛みをたっぷり味わう暇さえないのだ。
  引きずられるかっこうで階段を上り、廊下のすみでふいに計量器に載せられ、ひとあばれしてそれを降りると、すぐ前のドアを開いた男が、有無を言わせずかれをその中へ押し込んでしまう。
  「そのいすに座れ。」と男が言った。
  かれはいすに座りたくなかったし男の命令に反抗したかったが、男の強力な一突きでかれにはいすの上へ落ち込むほかにしかたなくなってしまうのだ。そして悪いことにかれはおびえはじめていた。
  「不平がましい顔をしないで長いすの上の服と着替えろ。」と男が言った。
  かれはうつむいてくちびるをかみしめ、男のことばを無視した。男はいまいましそうに歯をかみならし、かれを見つめている様子だった。そして黙りこみ、じっと待っていた。かれは断じて服を着替えしない決心をした。
  「おまえはなにをうらめしそうにしているんだ。」としばらくたって男が言った。かれは沈黙し肩の震えをとどめるむなしい努力をしていた。
  「おまえのおふくろや兄きたちも承知している。おまえはここで病気を治すんだ。」
  沈黙、そしてかれのいらだたしい腹立ち。
  「鳥たちが体のまわりにいるだって?つまらないことを言う暇に頭の治療をさせてやろうというんだ、おれの言うことを聞け。」
  かれは頑強に黙っていた。
  「おれも、おまえの家族もおまえをペテンにかけたが、それはしかたのないことだ。それも、けっきょくはおまえのためじゃないか、いやがらせをできる義理じゃない(8)だろう。」
  かれの返答を待ちくたびれて、ふたたびいらいらした声で男はしゃべりはじめた。
  「なあ、鳥だなんておまえ……。」
  かれはそれを聞こうとしなかった。男もまたしばらくすると口をつぐみ、かれと同じく沈黙してしまう。そしてもうかれと男との間にはつい先刻の親しみは毛頭(もうとう)残っていなかった。
  男とかれとは向かいあったまま黙りこんでじっとしていた。部屋の外から時々人間の声には違いないが、まったくどのような動機によって発せられるのかわからない、奇妙な叫び声や笑いに似たかん高い声、震えを帯びた声が伝わって来るのだった。とびらのすぐ外の廊下をひそひそ秘密めかしたやり方で話し合いながら過ぎて行く者たちもいた。院内で風紀が乱れるということはいったいどういうことなんでしょう、どういうりょうけんの人たちがいるんでしょう?わたしたち頭を治さなければならないじゃありませんか。それから、それから、風紀も何もそれからなのよ。
  男が誘いかけるような目でかれを見つめたが、頑強にかれはそれを無視した。かれは男に一時間以上も一言も口をきかないで、誘いかけをはねのけつづけていたのだ。
  男に対して話し掛けるつもりはまったくなかった。かれは男に腹をたてきっていた。そして自分自身については深く絶望しているのだった。おれはこの汚らしい水色に塗りたくった低い天井のある部屋から、この気違いどものうようよいる病院から、けっして抜け出すことはできないだろう、とかれは考えて身震いした。おれはここへ閉じ込められてしまって、長いあいだ気違い扱いされながら、この屈辱に満ちた生(せい)を続けてゆかなければならないのだ。かれは、目の前にむっと黙り込んでた箱を吸いながら視線をリノリューム(9)の古びた床に落としている男から意識をそらせるために、<鳥たち>を呼び寄せようとした。しかし<鳥たち>もすぐにはかれのまわりにやって来ないのだ。ごく存在感の稀薄な貧しい鳥が二羽ほど現れるのに長い時間がかかったが、いったん現れたとなると、今度はその鳥自体がかれにしらじらしいむなしい感情を引き起こした。それはかれを慰(なぐさ)めるどころかいらいらさせ屈辱感さえ呼び起こすのだ。
  こいつらが身のまわりにいてもなんにもならない、こいつらを呼び出して仲間に対してのように慰めを求めようとするなんてばかげている、つまらない子どもだまし(10)だ、とかれが腹をたてて考えると、せっかく現れていた小鳥たちがたちまち消えてしまった。そしてかれにはふたたび<鳥たち>を喚起するために意識を集中する気力がわかないのだ。ほんとうに子どもだましだ、おれは今までなんというつまらない子どもだましに熱中してきたことだろう、とかれは考え、すっかり疲れきり一人ぽっちの感情にさいなまれて体を縮めていた。それを男が冷淡(れいたん)な目で見つめるというわけだった。いったん<鳥たち>のイメージが崩れはじめるとそれはしだいに大きく崩壊し何一つあとに残さない完璧なやり方で、すべてをだめにしてしまう。おれは<鳥たち>さえなしで、この病院の中のたいくつと汚辱(おじょく)にまみれる日常を耐えねばならないのだ、とかれはほとんど鳴咽(おえつ)に襲(おそ)われながら考えた。かれは男が目の前にいる間、けっして屈服した表情や態度を示したくなかったので、実に長く感じられる時間をずっと鳴咽に耐え、震えに耐え、頬をこわばらせ歯をかみしめて昂然(こうぜん)と肩を張っていたのだ。内心はといえばお先まっくらだった。 
  とびらを荒々しく引き開けて、突き出されたがんじょうな頭が男をうかがった。男がうなずくと看護服を着た屈強な若者はまっすぐかれを見つめながら入って来た。若者の後から同じように屈強な看護服の男、これはごま塩頭(11)の男が入って来た。
  そして看護人たちはやにわにかれに襲いかかると、痛みのあまりにかれがうめき声をたてるほど乱暴なやり方で、かれの上着をはぎとりズボンを脱がせ、ついには下着までむしり取ってかれをまる裸にしてしまったのだ。目の粗い竹かごにかれの衣類を押し込んだ看護人たちが獣のように押し黙って出て行ったあと、かれはあまりのことにぼうぜんとし、すっかり裸で両ひざを抱えこみ寒さに震えている始末だった。
  「このなかで、おまえの着る服をいま持って来させるんだが、急ぐことはないよな。」と男がかれを挑戦的に見つめてゆっくり言った。
  「おまえは鳥を体一面にまといつかせているんだから、羽根ぶとんをひっかぶっているようなもんだ。あったかいし恥ずかしくないだろう?おまえの下腹のあたりに、しょぼしょぼ生えている褐色のものは、きっとすずめの頭の柔毛かなんかだろうじゃないか。」
  かれは怒りに震えて立ち上がったが、まる裸で何一つ体をおおう物なしでは威嚇(いかく)の身ぶりさえ容易だはないのだ。かれには広げた両手を重ねて下腹部に押しあて、これは依然ふんぞりかえっていすにしりを落ち着けている男をにらみつけるだけしかできない。
  「おまえは始末の悪い気違いだ、うそつき半分の気違いだ。」と男はかれの怒りの目にそそのかされて生(なま)の憎悪(ぞうお)(12)がふいにわいてくる熱を帯びたしゃがれ声で言った。
  「おれはおまえのようななまはんかな気違いを見るとむかむかするんだ。おまえは実のところ、鳥の群れなんか信じてもいないくせに、うそ八百(はっぴゃく)を並べやがる。ほんとうに鳥が言うことを聞くのなら、手紙を足に結びつけておふくろのところまで運ばせてみろ。そしてここから助け出してもらえ。おまえの鳥ときたら林の木の葉ほどもたくさにるそうじゃないか、それくらいの役にはたたせろよ。」
  かれはうなり声をあげ、むき出した歯の間から粘(ねば)っこいつばを吐き散らしながら、猛然と男に向って襲いかかって行った。座ったままの男が上体をいすの背へもたせかけるのが見えたと思うと、かれは裸の下腹をいやというほどけあげられ、頭を真っ先にしてうしろ向きにガラス窓へのめりこんで行くのだった。かれはうめきさえしないで気を失った。 

  虐待(ぎゃくたい)だとか告訴(こくそ)しようとか、非人間的な驚くべき行為だとか、兄たちの熱っぽい声がしている間かれは目をつむって息を潜めていた。窓の向こうで雨が降りしきっているようだった。兄たちが出て行き、雨が降り止むころになってやっとかれはずきずきする痛みに小さいうめき声をあげながら目を開いた。かれは自分の部屋に頭から頬までほうたいをぐるぐる巻きにして横たわっているのだった。そして疲れきってぐったりしていた。
  雨があがったあと、すばらしい速さで雲が切れ、実に涙ぐましい青色の秋の空が現れる。そこへたちまち夕暮れが暗い影と金色のつやをみなぎらせていった。かれは乾いた血と薬品とで頭一面をごわごわさせ横たわったままそれを見つめていた。眠っているあいだ涙を流しつくしたらしい、今まぶたの裏側は熱くなっていた。そしてかれは体を起こす気力もなくうちのめされていた。
  えたいの知れないものがかれの背の下のシーツをぬらしていて、そこから寒さが血のように脈拍(?みゃくはく)お打って伝わって来た。かれは自分がかぜをひきこんでしまいそうなのを感じていた。そしていったんそれをひいてしまうともう一生の間、ああ長い長い一生の間それから回復することができないような気がした。
  母親がごく控えめな足音をたてて部屋へ入って来ると窓を厚いカーテンで閉ざした。しかし彼女は明かりをつけようとはしないで、かれの枕もとに白く小さな顔、くちびるがしわよって突き出した顔をじっと支えながら座りこむのだ。そしてかれの肩を揺すり、かれのくちびるにあたたかいポタージュを注ぎ込む。かれは息を詰まらせてせきこみ、じんじん痛む頭にうめきながら無気力に少し吐いた。しかし空腹がかれを締め付けるので、しょうこりなくかれはくちびるを開いてポタージュを吸い込みつづけるのだ。
  「かわいそうに、かわいそうに。どんなにつらかったでしょう。」と母親はささやきかけた。「あなたが帰りたがってあんまり死にもの狂いで暴れるから救急車で運んでもらったのよ、あなたの鳥たちに会いたかったのね。」
  かれはぎくっとし目を凝らして実に貧しい母親の狭い額を見上げた。かれは<鳥たち>についてもうけっして考えてはいなかった。あれは汚らしい空想にすぎない、おれが汚辱に満ちているとき支えにならない。
  「おれは、あのいまいましい鳥どもから縁を切ったところだ。」とかれは言った。
  「いいえ、いいえ、もうだいじょうぶなのよ、あなたは病院に送られる心配なしに、あなたの鳥といっしょに暮らせるのよ。お母さんがまちがっていたわ。」と母親は啜り泣きながら言った。「あなたの部屋で、おびえたような鳥の激しい羽ばたきがあまり激しくするから、こわくなって病院へ行ってみたら、あなたが血だらけで倒れているところだったのよ。」
  「うそだ。」とかれは言ったが、その瞬間あたまの傷がすさまじく痛んでかれを気絶のすぐ前まで持って行った。かれは地からを失って黙った。
  「うそじゃない。」と母親はむしろ宗教的なけなげさのこもった声で言った。「わたしは、今自分の体に鳥の羽根がほんとに優しく触れるのを感じているのよ、それに鳥たちは鳴きしきっているわ、ほら。」
  かれは鳥のいっさいをかれのまわりに感じなかった。物憂(ものう)くたいくつで、ぐったりした秋の夕暮れで、かれはすっかり空虚な部屋に横たわり背の下のぬれたシーツのためにかぜをひこうとしていた。
「あなたが正しかったのよ。あなたは一生のあいだ鳥たちと暮らす選ばれた子どもなのね。わたしはいま信じてるわ。」
  おれはこのやりきれない生活を少しの幻影もなしに暮らしていくことになるのだろう、とかれは目をつむり体を小刻みに震わせて考えた。しかも気違い女にまといつかれながらだ、ああなんというやりきれない生活だろう。   
  
 

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